自動車の歴史 Part2-8
自動車の歴史トップ

自動車の歴史 Part1
1)自動車の起源
ニコラス・キューニョー
蒸気自動車
2)自動車輸送の問題
レッドフラグ法
3)自転車
内燃機関エンジン
4)マルコス
エンジンの進化
5)空気タイヤ
燃料

発展期 Part2
1885-1918
ヨーロッパ大陸
1)ダイムラー:
最初のモーターバイク
ダイムラーとベンツ

2)ベンツ:最初の車1
3)ベンツ:最初の車2
4)マイバッハとメルセデス
5)フランスの自動車
6)電気自動車
アメリカ合衆国
7)歓迎される自動車
アメリカの開拓者達
8)ヘンリー・フォード
Tモデルと大量生産

英国
9)自動車時代への参加
パイオニア
Vauxhall
10)英国社会と自動車
11)ロールス・ロイス
オースチン
ウィリアム・モリス

12)運転免許と登録証


自動車の歴史 Part3
自動車の歴史 Part4

アメリカ

【ヘンリー・フォード】
ヘンリー・フォード
は28歳の時、発明家として有名なトーマス・エジソンのデトロイト工場で技師になった。彼は余暇の時間を利用して自動車を組み立て、デトロイト周辺を自慢げにドライブした。1899年になると彼はデトロイト自動車会社を設立した。設立にあたり彼は、
「私は大衆のために自動車を作るんです。最もシンプルな設計で、ベストの材料を使うことによって、価格は大変安くなるでしょう。給料が安い人たちでも購入できるようにして、家族でドライブしたり、外出することを楽しんでもらいたいのです。」と言っている。
 しかし、残念ながら設立した会社はたった21台製造しただけで倒産してしまった。フォードはこれに懲りずに、1901年に再びヘンリーフォード会社を設立し、事業を始めたが、これもすぐに失敗してしまった。この会社は、前の自動車会社の従業員であったヘンリー・レランドによって引き継がれた。レランドは名前をキャデラックとして、技術的にも世界で最高レベルとなる自動車を製造し始めた。この車はすべての面で贅沢な車であり、数年のうちにヨーロッパの自動車メーカーがこれを追随するようになった。
ランソン・エリ・オールドのオールドモービル会社は年間に600台を生産し、すばらしい成功をおさめ、デトロイトの石炭市場に刺激を与えた。アレキサンダー・マルコムソンもこうした状況に一口乗った口で、他の実業家と共に、ヘンリーフォードが1903年に設立したフォード自動車会社に出資している。

charles&frank motorcar

本文に述べているようにへンリー・ランドはヘンリー・フォードが設立に失敗した会社を引き継いだ。名前は後にキャバリエ・デ・ラ・モテ・キャデラックとして、デトロイトに本拠を構えている。
ランドは高品質路線を選択し、キャデラックは技術的に世界で最も先進的で、贅沢な自動車となった。上の写真は1903年モデルである。1912年以降のモデルでは電気のライトとセルフスターターが標準装備となっている。

オールドモービル社が1902年に発表したリトル・オールドモービルは簡潔だが、スポーティな曲線的ダッシュボードをもつスタイリッシュなものであり、ボディデザインも売り上げを左右する重要なポイントであることを気づかせた。オールドモービルは米国ばかりでなくヨーロッパでもすぐに成功し、1905年には「In my little Oldmobile」という歌にもなり一世を風靡した。この車の泥よけは標準装備で650ドルの価格に含まれていた。
1863-1947
デトロイト近くのディアボーンでアイルランド系の移民農家の子として生まれる。
【Tモデルと大量生産】
1903年には、フォードはアメリカのレーシングカーとして当時最も成功を納めることにになる「999」モデルを製造した。続く5年間のうちに、彼は色々な車を市場に出している。1907年の後期に、彼はTモデルに集中することを決心した。
Tモデルの製造は1908年にはじまったが、それまではたった年間65台の車しか製造していなかったのに対して、1909年には約11000台のTモデルを製造している。
1910年には、19000台が製造されるほど、自動車に対する膨大なニーズがあった。1920年間までに、およそ100万台近くのTモデルが製造されたが、その後のたった3年間でその数は2倍になっている。
オールドもこの競争相手の成功を黙って見ていたわけではなかった。彼は1908年にオールド自動車会社をキャデラック社と合併させた。ビューウィックとオークランド(後のポンティアック)社はゼネラルモーターズ社を作ったが、それでもTモデルは勝者であった。
1910年になると、フォードは膨大な生産要求に対応するために、デトロイト郊外のハイランドパークにマスプロダクションを実現する彼の革新的なアイデアを盛り込んで、新しく設計された工場を設立した。ヘンリーフォードは自動車を発明したわけではないけれども、彼の生産手法があって初めて普通の人に自動車が手に届くものとなったのも事実である。
「Tin_Lizzie」として知られるようになったモデルTの価格は$220 発売開始時の850ドル(当時の競争相手の車の値段は2000〜3000ドルと言われている)から、1920年代には300ドルにまで下げられた。
1914年には、モデルTは40秒ごとにハイランド・パークのアセンブリーラインから出荷されるようになった。モデルTは多用途にも適用可能であった。農家はこの車に大きな車輪を車に付けたがった結果、それはトラクターになった。また、後ろをカットし、頑丈な荷台を付けてトラックにされたりもした。フォードはモデルTを「ユニバーサル・カー」と読んだが、ある意味彼は正しかったと言える。
モデルTの技術も年々改良されてきた。普通鋼よりも強度が高いバナジウム鋼や高強度の板ガラスを採用したアメリカで最初の車でもあった。フォードは最終製品を決してみることのない分割された組立ラインの流れ作業は退屈でフラストレーションのたまる作業であることに気づいていた。こうした状況にために、1914年にフォードは、こうした仕事の従事者に通常の仕事の賃金の2倍に以上あたる5ドルの日当を保障した。当然、ハイランドパークには仕事を探す人たちが群がるように集まり、群衆を解散させるために警察官の力を借りなければならないことも何度もあったといわれている。
charles&frank motorcar

1908年に設計されたフォードモデルTはまさに世界の大衆車となった。その5000の部品の中にはウィンドスクリーンワイパー、速度メーター、ミラー、燃料計、ダッシュボードに付けられたスタータースイッチ、バンパー、電灯、フード、荷物棚、道具箱なども含まれていた。1903年までの自動車のステアリングは色々な場所に付けられており、どちらというと右側が多かったようだが、Tモデルは左側に付けられており、これが現在の世界の主流を形成した。人々から「Tin Lizzie」と呼ばれ愛されたモデルTは少々無骨であるが、簡潔で何かあっても修理しやすかった。ただし、乗り心地は良くなかったし、時折スタートしづらかったり、ブレーキの信頼性が小さいなどの欠点もあった。
現在、1908年のモデルTはクラシックカーというよりは、ビンテージカーとして多くのファンに扱われている。

トヨタ博物館探訪

モデルTは自動車史の中で偉大なランドマークのひとつであった。世界中の人々のライフスタイル、業務環境、さらには産業の生産システムに大きな変革をもたらした。これに対し、ヨーロッパのほとんどの自動車会社は「Tin Lzzie」方式を採用することを拒み、一部の人たちのためだけの高級車モデルの生産を続けていた。